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About us

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のり工房 矢本

代表 津田 清美

これまで生産者がおいしいと感じる海苔を、消費者にも味わって欲しいと努力してきましたが、良質ののりを生産しても価格に反映されない事が、どの生産者も抱えていた悩みでした。 そこで、生産者の想いを直接消費者の方々に届けたいと2010年6月に「のり工房 矢本」を立ち上げました。代表の津田清美は、海苔養殖業である息子の津田大(ひろし)が生産した海苔を含む、矢本産の海苔を原材料として、焼のり、塩のり等の加工製造・販売を行っております。

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「うめばりいっそだがら、あがいん!」とは、「とにかく美味いから、いっぺん食べてみろ〜」という、地元の言葉です。

「うめばりいっそ!」美味しさの伝わる言葉です。

3代目 津田 大

のり工房 矢本

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2015年1月6日。

「第六十七回宮城県奉乾海苔品評会」の審査会が、塩竈神社にて朝から行われた。この日はたまたま海が時化て作業が休みになり、審査会の見学に来た海苔漁師津田大(ひろし/28)が僕の隣にはいた。一緒に審査に立ち会い、結果を待つ間「品評会では海苔の色やツヤ、香りで判断をしているけれど、作り手として一番こだわったのはどれ?」と聞いてみた。その答えが冒頭の言葉。丹精込めて作り、自ら選びに選んだ海苔が審査会で優勝に選ばれていない事が作った本人だからこそ分かっていながら、躊躇なく言い切ったのが印象的だ。

 

ここ大曲浜は古くからの漁村で、海苔養殖は昭和28年からと記録されている。家の大小はあれども住宅は密集しており、道路は狭く入り組んでいて、“浜の人”以外が車で来るとすぐ道に迷い、小さな部落ながら抜け出すのに苦労をした程。 津田家はこれまで代替わりが早く、大さんで海の仕事としては4代目。昭和28年から始まる大曲浜の海苔養殖だが、父千家穂(ちかお/55)さんは昔をこう振り返る。「むかし海苔は養殖でなく、ここ(大曲)から半島(牡鹿半島)まで行って、手で海苔を摘んで来て、それを売っていた。当時は貴重で、背負いカゴ一つ分も海苔を作れば、すごい金額になったものだ。」 海苔養殖の祖を辿ると、1949年イギリスの海藻学者キャサリン・メアリー・ドリューが海苔の一生を発見したことが大きな転機となっている。その発見により、人工的に海苔の種付けができるようになり、生産量が大幅に拡大され、運任せではなくなった。以降、様々な養殖技術、海苔を製造する機械など現在も進歩を続けた。その技術革新は大曲浜にも訪れ、それまで手で海苔漉きをしていた家に半自動の乾燥機が登場したり、現在の養殖でも行われる陸上採苗や、海上での海苔の活性技術など、全てがこの30年くらいの間に訪れた。

とは言え、当時は技術や道具があっても経験と知識が追いつかず、海苔だけで食べていくのは当然無理。夏場は稼ぎ人として収入を得るなど、苦労はしばらく続いたと言う。そんな時、祖父である政勝さんが全自動の海苔乾燥機を、自宅に導入した。 「機械を買ったから、あとは任せる」と言われた千家穂さんは当時21歳。実質の世代交代であったが「失敗しても、今の代表はオヤジ。自分に借金が来るワケではない」と考え、妻とふたり、海苔一本で生活出来るための猛勉強を始め、乾燥庫を任されてから7年後の「第39回奉献乾海苔品評会」で、千家穂さんの作る海苔が優勝を獲得し、津田家の海苔が皇室へ献上された。津田家にも、ここ大曲浜にとっても初めての栄誉だ。奇遇だがこの年に津田大が産まれた。

 

幼稚園の卒園式で披露した将来の夢は、大好きな海とおじいさんがやっていた「海苔屋」だったのだが、4人兄弟の3番目として産まれた大さんは、海苔漁師の道を諦めていた。大学卒業を控え、選んだ海の仕事は熊本県天草にあるマグロと鯛の養殖会社。1年中海に行って、鯛の水揚げに携わるいわゆる漁師の仕事。しかし現実は九州特有の暑さや、とにかく馴染めない環境や人間関係に「社長や上司にペコペコしているなんて、想像していた漁師と違う。」と、その年の夏には宮城に戻った。そして両親と兄に「やっぱり海苔屋をやらせてくれ」と頼み込み、父からは「帰って来るな!もう根をあげたのか?」と言われるが、兄からは「やりてぇんだったら、やればいい。俺たち兄弟ならスゴい事が出来るんじゃないか?」と言ってくれた。「お前は海苔屋になるような人間だからなぁ。お前が作って、俺が売る。」と。 そう言っていた兄は大さんに任せるように海苔屋を去ってしまう。しかし兄が抜けた分、海苔作りの仕事が増えても一生懸命向き合い、帰って来るなとまで言われた父との仲が悪かろうが「海苔作りっていい仕事なんだなぁ」と、心底思えていた。初年度は出来栄えや海苔の等級など気にする事はなかったが、充実感を持ってシーズンを終えた。オフには九州で海苔養殖の基礎を学ぶと「海苔作りって、こんなにも大変だったんだ」と、その研修で改めて知る。

縄が結べる、船が回せる、そんな程度で満足し、自分に海苔養殖は向いていると思っていたが、この勉強で初めて”海苔”の奥深さに惹かれた。初日の研修を終えた夜「俺は日本一の漁師になる!」「今やらないでいつやる!」と、ホテルから一歩も出ずに、その日の勉強を復習した。好きなコトにはとことん嵌まる性格に、本気のスイッチが入った。そして海苔の魅力に気付くと共に、“いい海苔を作っている、ウチってすごいんだなぁ”と、自分なりに親を見る目が変わった。

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そして2011年1月、いつもと変わらぬある日、父から「品評会で優勝獲ったぞ!」と聴かされた。自分の仕事も更に増えて来ていた事もあり「率直に嬉しかった。」と言い、父も一番最初に大さんに報告をしていた。二人目の子供も妻のお腹にいたこともあり「子供が物心着くまでには、早く一人前になりたい。」その想いは、この品評会の優勝でさらに加速をした。そして親孝行ではないが、早く成長して親父を引退させてあげたかった。だからこそ、津田家を継ぐには、人より勉強して、誰よりもやらなくては。そう全てが上手く行き出していた。 1月の優勝の報告を受け、いつもの一日を過ごしていた3月11日。この“いつもの”一日が激変した。

 

その日、午前中の網張りを終え、午後はのんびり家族でテレビを見ていたら突然大きな揺れを感じた。「おっ、地震だなぁ」尋常じゃない揺れに、息子と妻を急いでベッドに入れ、揺れが収まるのをひたすら待った。当時住んでいた家はログハウス。「この丸太が落ちてきたら死ぬなぁ。」最初の揺れが収まってすぐ、父から「早く出ろ!逃げるぞ!!」と怒鳴られた。寒いだろうからとジャンパー数枚、それと携帯電話だけを持って、1台の車でいち早く避難した。大さん自身も車で逃げようとしたのだが、鍵を家に忘れてしまった。家に取りに戻る事すらダメだ!と言わる程緊迫した中、家族6人で妻の実家へと避難した。避難する際、内心では前年のチリ津波の際にも津波は来たが、そんな何もかもを置いて逃げる程の大きい津波が来るとは思ってもいなかった。父も同じ考えだったようで、嫁や子供達を預けたら、再び浜に戻って船や乾燥庫の対策に向かうつもりであった。しかし避難している間に、6メートルの津波の情報が入り、乗っていた車のワンセグ映像を見て、そのまま浜に戻る事を諦めた。 次の日、自分が生まれ育った大曲浜を見るまでは、家があると思っていた。妻と二人で浜へ向かう途中、高架線の上から見た海沿いの景色は一変していた。あまりの惨状に、自然と笑うしかなかったと言う。どうしても浜が見たい気持ちで、とりあえず歩けるトコまで歩いてみようと妻と二人で歩いたのだが、道中の悲惨な光景に徐々に青ざめて行った。正直そこからの記憶はないと言う。覚えているのは「浜は終わったな。」

 

震災から2ヶ月が経ち、生活する為にも仕事探しを始めたのだが、どうにも全然やる気が出なかったのを覚えている。そんな時、当時の記憶が曖昧だが、震災後残った若手漁師の集まりがあった。みんな再開せず、このまま海苔屋を辞めると思っていたが、当時の若手の会長がはっきり「俺は浜を復活させる」と言い切った。事前に無理だろうと相談していた幼馴染みや先輩も「再開させる」と、その意見に乗った。マジか?どう考えてもムリだろ?お金もそうだが、何よりあの日高架線から見た光景に、大さんは完全に心を折られていた。

ただ「浜を復活させる!」の言葉に、ほんの少し「海苔がまた出来るかも?」と期待を持てた。

しかし、寝ている我が子の顔を見ると、次失敗したらこの子はどうなる?復活するにしても、いつ復活するんだ?現実的に別の仕事をした方が良いのでは?でも、今やらなかったら、この先何十年後悔するだろう?と葛藤は続いた。 あの日同じ光景を一緒に見た妻の妙子(29)さんは、海の仕事に反対だった。「まだ震災直後の話だったので、海への恐怖心が強かった事が一番大きな理由でした。もしまたこんな事があったら…、と不安で。当時1歳半の長男、お腹にいる長女をどうやって育て、どうやって生活をしていくのか?当時24歳だったヒロには、今なら仕事を変えても十分可能性があるんじゃないか?」と思った。

それでも「海に戻っていいか?」と聞いてきた大さんの質問に、すぐに返事が出来なかったと言う。

「でも、たくさん悩んで出した海に戻りたいという答え。そこには、代々続く海苔屋をここで終わらせたくないという気持ち、大曲浜という自分が育ってきた地元が消えてしまった今だからこそ、海苔を復活させたいという気持ちがあったんじゃないかと。そして、なによりヒロは今でも海が大好きなんだなぁと。そう思った時、ヒロの答えに反対なんて出来ない。家族を想ってたくさん悩んでくれただけで十分だなと思いました。後悔しないように、やりたいようにやって、それでダメだったらその時考えればいいや!」と。 浜の人にも「若いヤツらが浜を復活させないで、誰がやるんだ?頑張れよ!」とハッパをかけられた。そりゃそうだ!自分達しかいない。

ガレキ撤去をしながらも半信半疑であった「浜を復活させる」という想いには、後には引けない理由が出来た。 とは言え目の前に広がるガレキの山を前に、海苔が出来る未来を思い描くのは当時24歳の若者には酷だった。この先乾燥庫建てて、船を買って。一体いつになることやら?とにかく、目の前の仕事をガムシャラに働いた。そういった意味では、働いている時が一番楽だったかもしれない。

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そしてあの日からちょうど1年8ヶ月が経った、2012年11月11日に復活の海苔摘みが始まった。「どうやってやんだっけなぁ?」これがこの日の大さんの心境だ。また、久しぶりに出来た海苔にこれまでの感情が溢れて感動するのかと思いきや、初めて使う新しい機械に慣れておらず、仕上がりの劣悪な海苔が出てきた。「やばい!これは怒られる。」この時から父に「乾燥庫を任せる」と言われていた事もあり、感動なんてしていられなかった。どうにか復活の初年度を終え、やっと「これで家族を食べさせる事が出来る。」そう思った。

しかし、2年目。毎日どうしたらいい海苔ができるか?とにかく自分の理想だけを追い求め、それがストレスになり、先輩にも食ってかかるようになり、全てが空回りしだしたのだ。そんな時、震災前のお客さんから「津田家の海苔しか食べたくないから、早く復活してくれ」という言葉を聞いた。震災後も、本当にたくさんの人が浜にやって来て、多くの人が目の前で食べた海苔を美味しいと言ってくれた。その現実に、純粋に「美味しいと言われる海苔作りをしたい」そう思うようになった。

振り返ると、これまで作ってきた海苔を毎日食べていなかった事に気付く。海苔の乾燥庫はとても繊細で、その日の海苔の状態、温度、湿度などを加味し複合的な調整を毎日行う。「これまで日々やって来た調整は、一体何を調整していたんだろう?」その日から、今も大さんは毎日その日作った海苔を食べて覚え、全てを経験にしている。

 

大さんは、自分の海苔を中心に一つの輪を作りたいと思っている。そんな自分の海苔を楽しみにしてくれる輪が出来れば、生産者として幸せな事だ、と。毎年お客さんから言われる「今年はまだ?」それが励みになると。そして「浜を復活させる」という責任においても、今まで誰もやらない事をやれる浜でありたいと願っている。「大曲浜には、面白い海苔屋がいるぞ!」そのため学校に出向いて海苔の授業を提案したり、業種が違う生産者とも積極的に付き合ったりもする。そんな今の活動を千家穂さんも「自分が継いだ時と一緒で、今失敗しても大のトコには負担がないようにしてある。だから、今のうちに色々やっておいて欲しい。このままやっていけばいい。」当の大さんも、今季から本業の海苔養殖に一段と身が入る。2015年の奉献乾海苔品評会に提出した海苔は、津田大の名前で出品された。

この年から正式に大さんが津田家の名を継いだのだ。

 

津田家のモットーを千家穂さんはこう語る。「ちゃんと、美味しいものを作る事。美味しいと言われるのが何よりも一番嬉しい。」

今回の品評会での結果は三等賞であったのだが、冒頭に書いた通り審査基準は「色・艶・香」と見た目重視なのに対して、「味にこだわった」と言い切った津田大さん。 似た者同士、津田家の海苔は、確実に息子が受け継いでいた。

​文・写真 東松島食べる通信(2015年2月号より抜粋)

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